1980年の冬
1980年の冬は当時明けても暮れてもビートルズ生活を送っていた多感な少年時代(今もか)のなかでも最も衝撃的な1年でした。その年の暮れにはジョンが射殺されましてこれについては本ブログでも再三取り上げましたし去年は最後の地ダコタハウスを訪れることもできました。
しかし、もうひとつその影に隠れた大事件がその年の1月に起こりました。なんとポールが成田で捕まったんよねクサで。田舎の坊主頭(with三日月禿)のビートルズ気違いがあのポール・マッカートニー(&WINGS←どうでもええか)の来日を知ったのは確かこち亀の中の1シーンだったと思います。今なら例えオカン67が死んでも行くのでしょうが当時、今話題のホームレス中学生より若干マシという恵まれた家庭環境ゆえ最寄の公演地大阪でさえ行くという境地にはならなかったのが今から思えばカワイイですね三日月くん。まあ連日ワイドショーで詳細見れたんでそれはそれでうれしかったが。
以下は独断なのですが確かあのときのポールさんの供述は前泊地N.Yで上物をおゲットしたとのことで機内の御不浄に流すことは出来なかった類のことをのたまっておられたように記憶してますがそこの真偽はどうでもよくて、この事件の発端は当時からさかのぼること13年半前の’66年夏のビートルズ初来日のときと断言できます。というのもこのときは警視庁が異例の大警備体制を敷いたため(拙著連続ブログ小説I'LL FOLLOW THE SUNに詳しい。)なんと入管をパスし羽田のエプロンから直で首都高に躍り出るという「荒業」をどこかに覚えていたのでしょうね。なので今回も『まあ超セレブの僕チンのこと。今回もいただき~』くらいのもんだったのではないでしょうか。(だから初来日時のホテル缶詰の刑にも耐えれたってわけ)↑はトホホなポール。→はお詫び記事。しかし「愛好家」ってどっちのよ?!
蛇足ながら、獄中のポールからサインを貰った看守が処分されたことや最初の数日はそこらの囚人と同室にされ(!)「与作」をデュエットしたり(その方これご覧になられましたらご一報ください)’90年の来日には10万を超える署名嘆願書が当局に送られ漸く許可が出たという事実にも触れておきます。ポール。お主もワルよのう。